この世界をニュートラルに俯瞰する僕流のマインドフルネス感覚について
おはようございます。
毎日書こうと思っていましたが、本の校了が近づいてくるとなかなか難しいですね。
こうしているいまも、本に載せるイラストをコツコツ清書しているわけで。。笑
まあ、今日一日でなんとかなりそうですが、昨夜、急にトレース台が壊れてしまって、一瞬、焦りました。
で、いまさら買いに行く時間はないので、ネットであれこれ調べてたら、いろんな対処法があるんですね。僕は使っていないiPadをスクリーン代わりに利用する方法を採用しました。笑。
画面を真っ白にするアプリがあって、それをインストールするという。。

さて、今日書こうと思っているのは、この間の続きではなく、最近思い描くことの多い「意識の整え方」について。
意識の整え方か。。。ちょっと言葉が硬いですね。
マインドフルネスとはちょっと違う気もしますが、僕流の「俯瞰的マインドフルネス」というか、思考と感情の渦から抜け出してフラットにものを見る術みたいなものをイメージするといいかもしれません。
4月に刊行する『ゆるむ! 最強のセルフメンテナンス』の目的というのも、最終的にはこうしたフラットな意識をつくるというか、つくれる条件を増やしていくことにあるんですね。

いきなりマインドフルネスというのは、コンディションに左右されるし、もっと言えば、センスにも左右される。
センスの影響を最小化するために、コンディションを整え、心と体のベーシックな状態の平均値を可能な限りあげていく。。。
そのプロセスがある程度共有できると、全体が底上げされ、集合知も上がっていくわけですね。
で、それが集団、組織、社会を変えていくキーになっていくという。
前置きが長くなってきたので、とりあえずこうしたコンディションが整ったと想定して、俯瞰的マインドフルネス(仮称)について備忘録的にまとめておくことにします。
まず、「自分がいまいる場所」をちょっと客観視してみます。
一つの部屋を想定してもいいですが、この空間には時間が流れています。
「空間」と「時間」が別々に存在していると言ってもいいかもしれません。
ちょっと難しい言い方かもしれませんが、「空間がある」「時間がある」って、普通切り分けてとらえていますよね?
でも、少なくとも時間については、じつは絶対のものではないわけです。
きわめて心理的というか。。。時間を意識した時、人は過去・現在・未来という直線的な流れを自然と想起しますが、要は、時間は頭で思い描いたもの、それを多くの人が共有しているため「強い信念=常識」になっているわけです。
それの何が問題なの? と思うかもしれませんが、この直線的な時間の観念が「不安」や「心配」を生み出す源泉になるんですね。

不安や心配自体が問題なわけではなく、時間の観念がそれを増幅させ、人の心を支配してしまうところに問題があるという。。。
その結果、本来の思いが封じ込められ、自分自身が作り出した観念(妄想)のなかで不自由に生きていくことになってしまうわけです。
本来の思いというのは、じつはこの時間の影響をまったく受けていないわけで。。。
瞑想というのはその状態に戻るためのメソッドとして、伝統的に機能してきたと。
僕はいわゆる瞑想はやらないですが、瞬間的に次のようなプロセスでこの時間の渦から抜け出す感覚というものを持っています。
以下はあくまでイメージですが。。。
1、自分の意識(思い)を自分を見下ろせる位置に置いてみる(客観の第一歩)。
2、この感覚がなじんできたら、いまいる建物を突き抜けて、その建物を見下ろせる位置に置いてみる(自己と生活環境とのつながりを自覚)。
3、この感覚になじんできたら、さらに高度を上げ、自分のいる土地を見下ろせる位置に置いてみる(自己と風土とのつながりを自覚)。
4、同じ要領でさらに高度を上げ、日本列島が見下ろせる位置、できれば地球が見下ろせる位置まで徐々に上げていく(客観性の獲得)。
↓
このあたりまではイメージしやすいかもしれませんが(こういう瞑想をしたことがある人もいるかもしれませんし、あるいは、幽体離脱だろって思ったかも。笑)。。。
大事なのは、この4の過程で「時間と空間が混じり合ったような層」が現れてくるということです。
これは僕独特なものかもしれませんが、それまでバラバラに存在していた(ように思えていた)「時間」と「空間」、それぞれの粒子のようなものが溶けて、薄い粘液のような感じの膜みたいなものが現れます。
というより、急に膜を通り抜けるような感覚があるので、それは何だろうと問うたところで上記のような解釈が生まれた感じです。
で、さらに大事なのはこの粘膜層をスーッと超えていくと、時間が消える。
というよりも、時空(時間と空間)という観念から完全に離れ、逆にそれを見下ろしているような感覚がやってきます。
高度を上げていくというイメージで言えば、そこも空間と言えるので、感覚的には「時間が消える」という感じになるわけですが。。。
時間が消えるということは、過去・現在・未来という時間の流れも消えることになるので、その位置に立つと、「いま」だけになる。
量子論などでよく言われているように、過去・現在・未来が共存(同時存在)しているような世界というか。。。

では、過去や現在が見通せるのかというと、僕の場合、そういう感じではなく、わかりやすくいうと、「過去や未来を介さずに人そのものが感じられるようになる」。
いや、これではわかりにくいか。笑
もう少し補足しておくと。。。普通、僕たちは目の前にいる人のことを理解したいと思った時、「これまで何をしてきたか」(過去)、「これから何をしたいのか」(未来)を確認しようとしますよね?
もっというと、これらは時間の産物なので、現実には「過去」にも「未来」にもいろいろな思いが付着していて、それが「不安」や「心配」とつながっている人ほど、生きることの足かせが多くなるわけです。
でも、繰り返しますが、本当は時間と呼ばれるものはない。
ないということを前提にすると、過去と未来の思いを事細かに聞かなくても、その人の思いそのものが伝わってくるというか。。。
時間と空間の観念を外すと、目の前にはその人の「思いそのもの」があって、それは外界の影響を受けながらつねに変化している。。。
だから、日によって状態(コンディション)は変わるわけですが、そのあたりは表面的なもので、それは思いにまとわりついた煤(すす)のようなものかもしれない。
で、その煤を取り除いていくと、「その人が本当にやりたいこと」「望んでいること」などがふわーっと見えてくるわけです。
言い換えれば、その本当にやりたいことを何が妨げているか、煤の部分も見えてくる。

僕がなぜこういう話をするのかというと、これは決してスピリチュアルな話ではなく、取材やインタビューを通してたくさんの人と話をしていくなかで、経験的に培ってきた「感覚」がベースになっていることを伝えたかったからです。
要は、それがより自覚的に、まさに客観的にとらえられるようになってきたという。。
瞑想というと難しいイメージを感じる人もいるし、こういう僕の話を「宇宙意識とつながる」とか「自我を超える」というふうにとらえると、すごいことのように過剰に思われそうだけれど、ある程度再現性が可能な「状態」なんですね。
もちろん、僕の専売特許などではなく、感性のある人はどこかでこうした感覚を持っている、要はそれをどう養っていくかということだと思うんです。
セルフメンテの実践プログラムを開発していくこともやっていますが、このあたりをもっとロジックに落とし、ゆくゆくは一定の人数の間で集合知に落とし込めたらと思っています。