ポスト・コロナに向け、30年以上前に刊行された栗本慎一郎『パンツを捨てるサル』、ペストの記述を読み返してみた。

新型コロナウイルスのパンデミックが世界を席巻しているなか、アルベール・カミュの「ペスト」が改めて注目を集めていますね。僕も見ました、YouTubeで。笑

ペストはネズミを媒介にして繁殖する菌(ペスト菌)が引き起こす感染症で、今回のコロナウイルスとは抗原(病原体)の種類も、症状の程度も違いますが、でも、社会にもたらした影響という点では重なる点が確かにあります。

カミュの作品とは舞台設定が違いますが。。。史実としてのペストは中世を終わらせ、結果として近代社会を用意しました。

歴史の変化は人為的なものではなく、そこにはたえず病い(疫病)が寄り添い、ヒトの体はつねに書き換えられ、バージョンアップを強いられました。身体の内的な変化、それと並行した意識や価値観の変化、そして社会の変化。。。身体がのウチからソト、ミクロからマクロへ、変化の流れは連なっているわけです。

その点について、すでに30年以上前に《予見》していたのが、知る人ぞ知る、経済人類学者の栗本慎一郎さんです。

栗本先生の本は、学生時代に繰り返し読み。。。その後、幸運なことにエディターとしては最後の2冊(『ゆがめられた地球文明の歴史』『栗本慎一郎の全世界史』ともに技術評論社)を担当することもできました。

★「栗本慎一郎の全世界史」書籍サイト https://kurishin2013.wixsite.com/kurishin-world

このあたりはまた機会があれば触れるとして。。。ここでは幻の名著というか、問題作というか。。。笑。まず、栗本先生の往年のベストセラー『パンツをはいたサル』の続編にあたる『パンツを捨てるサル』の冒頭に挙げられていた、11の予見(これからの時代に起こる事実)を抜粋したいと思います。

その1 ヒトの体は、つねに同じものではない。

その2 ヒトの体が変わると歴史が変わる。

その3 いま、ヒトの体は変化を開始した。

その4 ウイルスは、ヒトの体を「支配」する。

その5 病気がヒトを進化させる。

その6 「快感」がヒトを支配する。

その7 パンツを上に「大パンツ」がある。

その8 ヒトを快感創出にも精神破壊にも追い込むもの。

その9 ヒトの脳は、「麻薬」を作っている。

その10 ウイルスは、ヒトを「快感」の方向へ向かわせている。

その11 私たちは、ヒトの「運命」にどう立ち向かえるのか。

この内容だけでピンと来るでしょうか? ピンと来た人はぜひ同書を一読してほしいと思いますが。。。詳細はわからなくても、なにやらこのいまの状況だからこそ伝わってくるエッセンスを感じませんか?

ちなみにここでいう「パンツ」とは、「ただ生きるためだけなら必要のない、余計なもの」を暗喩したクリシン用語(!)で、生産物はもちろん、法律、道徳、宗教、お金。。。など人間社会で生み出されたもの(動物にはないもの)を表しています。

ヒトはこうした過剰をたえず生み出し、それを蕩尽する(消費し尽くす)ことに快感を覚える。。。独自の行動原理を持っていると、栗本先生は言います。それをなぜ「パンツ」と言い表したかというと、

生産物と同じように、結局は脱ぐことに快感を覚えるものだが、いつもはいていなくてはならないからである。

脱ぐことに快感(笑)、つまり、蕩尽するための過剰を必要とする、その結果として歴史は突き動かされ、変化を繰り返し、こうしていまグローバルな金融資本主義(経済人類学がいう「市場社会」)が生まれました。

それはもはや、ヒトが求める本来の幸せとは逸脱した、お金が一人歩きするようなモンスター化した「過剰と蕩尽」の社会です。

多くの人が窮屈さ、閉塞感を覚えてしまう決して幸福とは言えない社会でありながら、そこから抜け出すのを拒む、お金(経済)という強い拘束がある。。。果たしてヒトは、この「パンツ」を「捨てる」ことができるのか? 

同書では、こうした歴史の流れにウイルスやバクテリアという目に見えない「生き物」が介在していると説きます。ここではカミュの話とからめ、同書でペストについて言及している箇所を抜粋してみましょう。

ちょっと長めですが、まず読んでみてください(太字は筆者)。

ペストが、最初にヨーロッパを襲ったのは、西暦542年から548年にかけてである。西暦395年に東西に二分されたローマ帝国のうち、ローマを首都とする西ローマ帝国は、すでに滅んでおり、コンスタンチノープルを首都とする東ローマ帝国しか存在していなかった。その東ローマが、ペストの最初の洗礼を受けたのである。

その結果はひどいものだった。わずか4ヶ月のあいだに首都コンスタンチノープルだけでも20万人から30万人の死者を出し、東ローマ人全体の半分が死んだとさえ推定されている。

東ローマは、ノミがはね回るたびにばらまかれるペスト菌に屋台骨を蝕まれ、結局、瓦解する。ローマは一日にして成らず、されど、ノミによってのみ滅びぬ、である。

このため、ギリシア、ペルシア帝国、ローマ帝国と続いた、もともとヨーロッパよりはるかに先進文化圏だった地中海沿岸は、この後、長いこと西ヨーロッパや北ヨーロッパに遅れをとることになる。7世紀、イスラム帝国は、この地中海沿岸の混乱に乗じて、かすめとるようにしてこの地域を占領した。イスラム教徒は、聖地メッカにノミを祀らなければならないだろう。

その後、ペストは全ヨーロッパとアラビアに広がり、200年もの間、10年から24年の周期で流行を繰り返した。つまり、ペスト菌は、ある時、一気に活性を高めて大量にヒトを殺し、ヒトのあいだに菌に対する免疫性が広まっているあいだは「保養」して、再び登場するという歴史を繰り返した、というわけである。

これは、いったい何を意味しているのか。病気は必ずある種の体質の人びと、言いかえれば、ある一定の遺伝上の特質を持つ人びとのグループを襲う、ということではないだろうか。

つまり、ウイルスやバクテリアが登場して活躍すると、死ぬべき体質の人は死ぬ。で、いったん鎮まる。しばらくすると、また発病すべき体質の人が出てくる。そこで、またウイルス様などが働く。死ぬ奴は死ぬ。残りの人は、ウイルスの宿主としては政府登録国際観光旅館みたいなものだから生かされている。これが、病いとヒトの共存の本質である。困ったものではないか。

ウイルスもバクテリアも人を選ばずに感染していきますが、発症(の程度)については絶対の基準があるとは言えないところがありますよね。

たとえば、どんなにひどい病気でも、その病原体たるバクテリアやウイルスをヒト全員に故意に接種したとしても、発病率は100パーセントにはならない。もちろん、体力のあるなしが発病に影響することはあるが、頑強でも倒れる者もある。発病率の問題は、医学が未解決のまま残している大きな分析対象のひとつである。

バクテリアやウイルスは、それ自体が「生命」であり、「生物」である。生物学者のなかには、ウイルスを生物として認めていない人もいるが、断固としてそうではない。

彼らは、自分たちが活動したら死んでしまうような宿主ーーつまり、発病して死に至るような人びとを嫌っている。せっかく寄生させてくれている宿主が死んでしまったら、住むところも食べるものもなくなってしまうからだ。だから、そういうタイプの宿主は殺す。活かしておく必要がないからだ。

ウイルスやバクテリアにとって都合のいい宿主だけが生き残る。。。言い換えれば、こうした異物との共生を果たしたヒトが新たな社会の担い手となり、身体に染み込んだ新しい価値観をベースに新しい社会をつくっていく。

もちろん、本人の自覚の有無にかかわらず。。。

もう少し、ペストとヒトの歴史の関わりをみてみよう。ペストが文字どおり「黒い死」をもたらす病いとして真に猛威をふるうのは、じつは、14世紀のヨーロッパ中世にはいってからのことであった。

1346年、クリミア半島付近で再起した(?)黒死病は、またたく間にヨーロッパを席巻した。このときペスト菌は、それまでの流行の中心であったリンパ腺に腫脹を起こし、全身の皮膚に膿疱を生じさせる腺ペストだけではなく、肺を冒し、咳やくしゃみなどによって人から人へ直接伝染する肺ペストの症状を引き起こすものにも変化していた。

結局、14世紀のヨーロッパ全体で2500万人から3000万人近い死者が出て、全人口の四分の一ないし三分の一が死んだ。イタリア全土では、二分の一の人が死に、イングランドでは、なんと人口の九割もの人間が死に絶えてしまった。九割という数字を、しばらくこの本を閉じて、味わってほしい。

そして、その後の黒死病は、ほぼ300年周期で二度にわたって世界的に大流行した。日本の北里柴三郎がペスト菌を発見したのは、19世紀末の歴史上最後(かどうかは、なんの保証もないが)の大流行の最中だった。

こうしたヨーロッパにおける黒死病とヒトとの関係から、今日のヨーロッパ人は、ペスト菌が宿主として「好む」タイプの人たち、すなわち感染してはくれるけど、発病しない人びとや、発病しても死なない人びとだけが残された。

だから、将来、バイオ・ヒストリー(歴史生物学)と生化学および自然人類学の研究が結びつけば、同じヨーロッパ人といっても、黒死病前と黒死病後では、画然と異なることが明らかにされるだろう。

なぜなら、あれだけの人が死んだということは、ほぼ100パーセントの人が感染しているはずで、だとすれば、生き残った人は、神によってではなく、ペスト菌によって生存を許された人たちということになるからである。私はかねがね思っていたことだが、ひょっとすると、これまでの大多数の宗教が崇め奉っている神とは、ペスト菌かもしれないのではないか。

だが、私の立場から言えば、ほんとうに死ぬべき人が死んだのかどうか、そして、そのことが根源的に何を意味しているかに興味がある。

黒死病は、ヨーロッパに近代を用意した。これは、とりもなおさず、近代人の体を用意したということを意味している。

14世紀後半にいったんおさまった黒死病は、それまでの中世ヨーロッパ社会を支えていた制度、思想、宗教、モラル等の存在様式を根底から揺さぶり、次なる近代のそれへと導いていった。

たしかに、いかに事実に基づいているとはいえ、ダニやシラミやノミたちが、寄ってたかって歴史を変えたという議論は、誇り高い人間のプライドを傷つける。体もかゆくなるし。だが、事実だから仕方ない。われわれは、事実を徹底的に直視するなかからしか、真の「神」の姿を垣間みることはできないのである。

どうでしょうか? ここでもう一度、前述の11の予見を読み返してみてください。

今回の新型コロナウイルスは、ペストのような形で(大量の死者を出すような)猛威は振るわないかもしれませんが、明らかに社会を変えようとしていますね。例によって、突然、強制的なかたちで。。。

そこに「身体」というものを介在させたところに栗本先生の直感知の凄みがあるし、怖さもあります。なにしろ30年前に書かれているわけですから、当時、ピンと来なかった人も多かったかもしれません。笑。

事実、当時はエイズが蔓延しはじめた頃で、社会が変化する予兆のようなものはすでに見られたのかもしれませんが、社会の構造が揺さぶられるような本当の意味での変革には至っていなかった気がします。

バブル崩壊、阪神大震災、オウム事件。。。さらにはその後のリーマンショック、東日本大震災など、様々な事態に遭遇し、そのたびに内的な脱皮は繰り返されてきましたが、決定的に何かが変わったわけではない。

では、今度はどうなのか? 決定的に変わる? だとしたら、なにがどう? 

それはペストがヨーロッパの中世を終わらせ、近代を用意したように、今度は大きな意味での「近代」が終わる。。。そんな意識の変革、社会の変革、身体の変革のただなかに、いま、僕たちはいるのかもしれません。

身体の変化を伴った意識や社会の変化という視点は、言い換えれば、ウイルスとの共生を可能にする身体をいかにつくるか、という問いかけにつながります。

現代の日本のように公衆衛生が発達した社会では、「感染のリスクを最小限に抑え、症状を軽減させていく」ことは確かに可能でしょう。

そこがいま「自粛」という形で注意喚起されているわけですが、大事なのはそれだけではないですよね。免疫の仕組みがこれだけ明らかにされ、発症のメカニズムが解明されてきた以上、ただ避けても次の社会は生まれません。

ハードランディングか、ソフトランディングか。。。その違いはありますが、ウイルスとの共生を済ませ、身体をバージョンアップさせること。

ハードランディング路線がいわゆる「集団免疫」なのだと思いますが、そこには重症化のリスクが伴うため、僕自身は、セルフメンテナンスを基軸にしたゆるやかな身体変容→意識変容→行動変容が大事だと感じています。

ダジャレではないですが、ウイルスとの共生は強制的な身体の変化を強いられます。笑

それはただ感染して、体調が悪くなる、悪化すると生命の危機を伴うというだけの話ではなく、ウイルス目線で見た場合、「身体の書き換え」があるわけです。

そしてこの書き換えは、コロナウイルスにかかわらず、本当はつねに起きていることです。

その象徴が様々な発酵食品であり、腸内細菌であり、さらに言えばミトコンドリアであり。。。日本社会は見えない「生き物」との共生によって身体を心地よい方向に変容させながら、独自のソフトランディング路線で社会をつくってきました。

お気づきかもしれませんが、それが身体レベルで見た、持続可能性のある社会、SDGsの本質でしょう。

日常のなか、暮らしのなかでの変容、そこにはワクチンや治療薬ではなく、食べること、呼吸することがより深く関わってきます。

ヒトはなにを食べ、どう生きていけばいいか? 身体を整えるとはどういうことか? 身体にとっての心地よさとは? それをどう持続させるのか?

これらの問いかけが、経済活動(仕事)にも、能力開発や自己啓発にもリンクし、全体を一つに変容していくような道すじ。。。このあたりの全容についてはまた機会を改めてまとめてみたいと思います。

とりあえず、セルフメンテナンスについては、こちらをポチっとお願いします。笑

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ポスト・コロナに向け、30年以上前に刊行された栗本慎一郎『パンツを捨てるサル』、ペストの記述を読み返してみた。” に対して4件のコメントがあります。

  1. jjj より:

    ペスト流行時の描写は、栗本氏はカミュのものより、『ロビンソン・クルーソー』の著者であるダニエル・デフォーデフォーの方を買っていて、解説も書いていらっしゃいます。(https://www.amazon.co.jp/dp/4092510047)

    1. takanorix69 より:

      知りませんでした。なんと翻訳もされているんですね。機会を見て読んでみたいと思います。

  2. なお より:

    ふむふむ。納得。クリシン理論が分かりやすく解説されていて、今どきの人にもよく分かります。
    コロナ禍の後の世界をハッキリと下記のように提示されていて、卓見だと思いました。
    ・・・・・・・・・・
    身体の変化を伴った意識や社会の変化という視点は、言い換えれば、ウイルスとの共生を可能にする身体をいかにつくるか、という問いかけにつながります。
    現代の日本のように公衆衛生が発達した社会では、「感染のリスクを最小限に抑え、症状を軽減させていく」ことは確かに可能でしょう。

    1. takanorix69 より:

      ありがとうございます。コメント気づかず、レスが遅れてすみません。
      ウイルスとの共生を可能にする身体。。。僕たちは知らず知らずのうちに、そうした情報の書き換えをさせられているのかもしれませんね。その結果が意識の変化、行動の変化にも及ぶという。。。
      栗本先生の過去の著書に、いまこそ気づいてほしいなと感じます。

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