あれから一年。ペルー・ボリビアの旅で見た「統合の夢」が、思わぬ形で現実へ向かっている。。。

GWまっただ中ですね。

新型コロナウイルスのパンデミックという予想もしなかった展開で、連休中、ずっと引きこもりという人も多いんだと思います。

まあ、僕たちはもともと出勤していたわけでもないので、特に日常が変わることもなく。。。笑。でも、ふっと振り返るといまから1年前って、年号が「令和」に切り変わったタイミングですよね。

あれから一年。。。

いろんな意味できびしい時代になるんだろうな〜と感じていましたが、こういう形で「きびしさ」が現れるとは。。。だって、ウイルスの活動って人智を超えてますよね。

コントロールしようと思っても、できるものではない。

そんな見えない力によって、多くの人が反対できない形で、強制的に生き方を変えさせられ、意識を変えさせられ、ついには時代も変えさせられ。。。

しかも、これがいつ終わるかというハッキリした見通しもない。

かつてのスペイン風邪のように繰り返し流行していくことで、生き方も、経済も、すべてが揺さぶられ、新しい時代に移っていく。。。

なぜこんな話をするのかというと、ちょうど1年前。

まさに「平成」から「令和」に切り替わるタイミングに、僕たちはペルー・ボリビアを旅していたんです。

で、年号切り替わる5月1日は、まさにマチュピチュにやってきて、対面する霊峰ワイナピチュに登ろうという一日。

懐かしいな〜。もう前世の記憶くらいの懐かしさ。笑

結局、20日あまりにわたってアンデスの広〜い広〜い大地をめぐり、それこそいろいろな体験をさせてもらったのですが。。。

個人的なインパクトで言うと、 クスコにあるコリカンチャ博物館の黄金のプレートを見た時、ふっと意識が中空に舞い、不思議な「夢」を見たことが思い出されます。

どんな夢かというと「統合の夢」。

当時のブログから引用すると。。。

で、博物館に展示されていたこの黄金の板、レプリカですが、インカの世界観、宗教観が集約されているらしく。。

英語とスペイン語の解説をボーっとたどるうちに、内容とダイレクトに関係はないのですが、いずれ執筆することになる「フードジャーニー」ペルー編のアウトラインが浮かび上がってきました。

僕たちはいま何を思い出し、共有しなければならないか、なぜ旅が必要なのか、そもそも旅とは何なのか。。

https://handkerchief-books.selfmaintenance.org/2019/05/04/post-2016/

あの時に感じたのは。。。

時代は変わるんだなあ。。。いや、時代じゃない、僕たちが変わっていくんだな。。。そんな決意のような、自覚のような、でもどこか夢のような。。。

時間のある人は、旅から帰ってきた後に書いた↓この一文を読んでみてください。

統合の夢〜ペルー・インカの旅より

人類は長い間、ずっと夢を見てきた。

それは世界をひとつにしたいという、
自分の見ている世界を統合したいという、壮大な夢。

ただ、目の前にはさまざまな壁が存在していた。

その壁は言語の壁であり、国境の壁。
理想主義者はそれを取り去りたいと夢を描き、その夢を語り出した。

続きはこちら→https://handkerchief-books.selfmaintenance.org/integration-dream/

僕のなかで壁が崩れる瞬間というのは、これまでも何度かあり。。。

言語の壁、国境の壁が崩れた最初は3年前、ハワイのマウイ島でコロンクレンジングを体験した後のことだったのですが。。。

このペルーの旅でさらに壁は壊れ、簡単にいうと、

自分って地球人なんだな。

と思えるようになったというか、ようやくこの星サイズで物事が考えられ、イメージできるようになった感じがしています。

で、それから濃密な一年が過ぎていき。。。

長くなるので、この間起きたことは省略しますが。。。(笑)。

コロナのおかげもあって、いまは自粛、自粛。。。国内外のあちこち旅していた去年とはまさに対極というか、真逆というか。。

旅をしなくなった代わりに、あちこちでzoomミーティング、お話会などが開かれ、また違ったコミュニケーションが生まれているという現実。

一見するとポジがネガに反転したような印象を受けますが、

旅を通じてつながったこと。

ネットを介してつながっていること。

この二つが僕のなかで違和感なく折り重なり、広い意味ではいつも同じままの僕が世界と関わり合っている。

世界は地球。。いや、本当はもっと広がるのかもしれない。

そう、世界は広い。広いのに広いとは思えていなかった。

自分が勝手に、いろいろなことを決めつけていたから。自分は英語がしゃべれないからとか、日本人だからとか。。。

もっと言えば、自分は本をつくっている人だという自己規定みたいなものがあって、

しかも、その本は日本人だけが対象で、

それはなぜかというと、日本語しか書けないからという。。。笑

書いていくと笑ってしまうけれど、気がついたらいろいろな「常識」が巣食っていた。

それがどんどんと剥がれていき、地球人に生まれ変わっていくプロセスに、

いくつかの旅が存在していた。

僕たちはだいぶ遠いところまで旅をして、気がついたら、

葉山という箱庭みたいな空間でパソコンの向こうの人たちと話をしている。

で、今日は京都大学の金尚弘さんとzoomトーク、10名弱の人たちと「方法論」と「感情論」をテーマに話し合ったけれども。。。

根っこにある問いかけは旅の頃と変わらないまま、

でも、それがより濃密に共有できてきているような、そんなこれまでになかった不思議な手応えを感じることができました。

皆さんとの対話の中で出てきた「ロゴス」と「レンマ」というフレーズ。

レンマという耳慣れない言葉は、これからの新しい時代を生きていくための、やはり大事なテーマなんだなと改めて思う。

私たちが暮らしている近代文明は「ロゴス」、つまり、言葉で言い表すことのできる論理によって動いています。

ロゴスの論理においては、生と死は決して重なり合わないし、動物と植物は別の生き物です。

ロゴスは言葉を順番にたどっていけば、必ず理解できる。「整理」や「秩序」の論理と言ってもよいでしょう。

しかし、仏教や古代ギリシャの思想には、もうひとつ「レンマ」の論理というものがありました。

言葉では世界の本質はとらえきれない。世界は多次元的に複雑に動いているのだから、時間軸に沿って整理するのではなく、直感的に、全体を一気に把握する必要がある。これがレンマの論理です。

「悟り」と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね。

天才・南方熊楠が見ていたもの〜中沢新一

こうした中沢新一さんのレンマにまつわるお話(南方熊楠論)は、ハンカチーフ・ブックスの「TISSUE(ティシュー)Vol.4」にも掲載されています。

この本を刊行したのが、僕の意識が大きく動き出した2017年の秋。そう、この本の刊行を終えて日本を経ち、ハワイに向かい。。。

最後に、コロンクレンジング(腸内洗浄)で腸という「小宇宙」を5日にわたってクリーニングして。。。

なんだかすべてが懐かしいな〜。笑

zoomのトークでは、これに関連して、

マイケル・ポランニーの「暗黙知」についても話題になりました(僕が話題にしました)。こちらはWikipediaから引用すると。。。

簡単に説明できないが、理解して使っている知識が存在する。

誰かの顔を見分けるということは、その人の写真を見せてもらえば覚えることができるが、諸々の特徴をいかにして結び付けているのかについては説明しにくく、これが暗黙知である。

たとえば、自転車に乗る場合、人は一度乗り方を覚えると年月を経ても乗り方を忘れない。自転車を乗りこなすには数々の難しい技術があるのにもかかわらず、である。そしてその乗りかたを人に言葉で説明するのは困難である。

それゆえ知識から人間的要因を「恣意的」として排除しようとすると、決して操作に還元しえない「知る」という暗黙の過程をも否定することになり、知識そのものを破壊してしまう。

ハンガリー出身の化学者哲学者社会学者マイケル・ポランニーが著作『暗黙知の次元』において、タシット・ノウイング(: tacit knowing)という科学上の発見(創発)に関わる知という概念を提示し、「あるもの」をそれぞれ遠隔的項目・近接的項目と呼んだ。

このような傾向を近代の学問の中に見出したため、ポランニーは化学者から哲学者へと転向した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E9%BB%99%E7%9F%A5

wikiに掲載されていたこの画像を見る限り、暗黙知って、要は集合無意識のようなものですよね。

個人無意識の奥にある集合無意識。

ここにつながることは、「自然」とつながるということ。

コロナウイルスも、ヒトも、他のすべての生き物も、同じルーツのなかで「生命」を動かしている。もちろん、敵も味方もない。。

そういう世界につながるにはどうしたらいい? つながったらどうなるの?

当たり前に続いていた現実から引き離されたような自粛モードの日々は、

もしかしたらこうしたつながりを思い出すきっかけになるのかも。

zoomトークのきっかけになった金尚弘さんとの対談も、このあたりの感覚と根っこの部分でつながってくるのかな。。

ポイントになる箇所を抜粋すると。。。

長沼 デジタルと言うと、職人的世界の対極に向かっていくようなイメージがあると思いますが、そこにも人の感情や意識が介在すると思うんです。相手が機械だからといって機械的に対処すればいいわけではないという……。

 極論を言うと、僕は「好き嫌い」だと思っているんですけど(笑)。

長沼 何に対する「好き嫌い」?

 (研究者である)自分自身の好き嫌いですね。たとえば、食べ物だったらキュウリは嫌い、海老フライは好きみたいな……そういう感情レベルの話と、他の人や社会との価値観の共有点を探すことが大切なのかなと思っています。

長沼 工場を動かすのにも?

 たとえば、工場からもらったデータを見て無機質に話をしても、現場の人は「現場でやっている感覚」みたいなことで話されたりしますから、それらがクロスしないと現実はよくなりませんよね? 

だからこちらが好き、あちらが好きのどちらでもいいと思いますが、人とクロスできる部分を探すことがまず大事になります。

長沼 それはわかる気がします。

 ただ、「好き嫌い」といった場合、こちら側の「好き」から始まっている感じなんです。この10年くらい、「データを出せ、何とかしてやる!」みたいな感じで、究極的には「こちら側だけでも何とかなるだろう!」と自分の関わる世界を広げてきましたが、向こう側がゼロになることはない。好き嫌いが最後には残ってくる。

長沼 現場の好き嫌いが?

 はい。自分の好きな部分を追求するほど、できていないことが見えてくる感じですね。

長沼 データを突き詰めていっても、成り立たない何かがあるという?

 原理的にできないことがわかってくると、逆に「好き嫌い」みたいな部分も大事にしないといけないんじゃないかと感じますよね。
それが実際にどういう形になるかはわからないですが、そうしたことを考えたうえで数字に触れると、おもしろいことが見えてきます。

https://mag.handkerchief-books.com/kim2019/201909230913_1543

生物と機械の境界。

好き嫌い。

感情。

暗黙知。

レンマ。

個人としてそういう感覚をつかむという話にとどまらず、

社会全体がそうしたロゴスを超えた方向へ進んでいく。。。後世から見たら、いま、その静かな一歩を踏み出しているのかも。

これはスピリチュアルな話でもなんでもなく、僕の感じている限りにおいては、日常の感覚のちょっと先にあるもの。

それを置き去りにしてきた僕たちの生き方が、いま深く問われているんだと思う。

自然科学と人文科学をつなげ、
身体のウチとソトをつなげ、意識と肉体をつなげ。。。

人と人、人と社会、人と地球、人と宇宙をつなげていく。

人が知的に感じること、
知的に感じる以前に感じていること。

それだけでない、人が生きて食べていること、
食べて元気になること。

すべてを統合させた世界像をつくる。
それは人類がまだ成し遂げていない夢であり、革命だった。

(中略)

統合の夢は人類の夢。

それは必ず叶えられる現実。創りあげられる世界。

僕はそこに向かっていく。
僕とつながるすべての人たちと一緒に。

愛とやさしさをたずさえ、言葉と文字をツールにして。

https://handkerchief-books.selfmaintenance.org/integration-dream/

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